LIFE

Yuka Fukuoka

アイコンのデザインに終わる

アイコンは、UI/GUIデザインを構成するもっとも代表的で魅力的なアイテムである。誰でもとにかく作ることができる簡単なデザインアイテムといえば言える。
道具なんかなくても紙と鉛筆があれば、マス目を塗りつぶしてデザインすることができる。実際そうやって昔はアイコンをデザインしていた。
自分はいったい、今までに何個のアイコンのデザインに関わったことだろう。たぶん何千個か、もしかすると何万個作ったかもしれない。いまだにうまくデザインできない気がするが、でも私はその仕事が好きだ。

アイコンは小さなアイテムで、新任のデザイナーにはじめて頼む仕事は、ほぼまちがいなくアイコンのデザインだ。それは説明しやすく頼みやすいということもあるが、その人のデザインの潜在能力や志向を測れる仕事でもあるからである。

本当のところ、アイコンはいろいろなデザイン要素が含まれていて、とてもむずかしく奥の深いデザインアイテムなのである。
UIデザインはアイコンにはじまりアイコンに終わる。というのは半分冗談だが、半分はまじめに思う。

たとえばアイコンデザインに必要な能力には、どんなものがあるか。

・物事を抽象化する能力
・本質的に概念を把握する力
・発想の転換
・視覚的な表現力
・形と大きさのバランス感覚
・色彩感覚
・複数のデザイン物間の関係性の構築力
・ストーリーの展開力
・ユーモアのセンス
などなど。

またアイコンの出来不出来/良し悪しについてだが、これまた誰でもが語れる。むしろ素人とか、本気でデザインしたことのない人こそ、アイコンのデザインの良し悪しを語りたがる。何しろ「語りやすい」デザインアイテムなのである。
プロはあまりペラペラとは語らない。むずかしいのを知っているから。
(私はとりあえず語ろうと思うのだが。)

まず、アイコンの良し悪しに簡単に点数は付けられない。このアイコンは60点、こちらは95点とか。
評価軸がたくさんあるし、どういう観点から見るかによって考慮すべき内容は違う。
評価軸については、その数が有限である保証もない。本当に斬新なアイコンのデザインは、新しい評価軸を提示するもののような気がする。
時代によっても採点は変わっていく。時代ごとの流行廃り(というと軽いが、時代の気分や息吹を表していることも大切だと思う)もあるし、利用者の慣れや学習、リテラシーという変動要素に大きく振られる。だから、いつの時代に評価するかにかかわっている。
アイコンをデザインする際一番最初に考えなければならないのは、そもそもそれをアイコンで表現すべきかどうかということであると思うのだが、もしアイコンにすべきでないとしたら、どんなデザインをしてもすべてのアイコンにはマイナスの点しか付かない。
そういったことは、いろんな事情でスルーされやすいのだが。

代表的な評価の観点をあげてみよう。

「意味の表現性」:それが何を表しているのがわかること。
「弁別性」:隣のアイコンと、一瞬で区別ができること。
「文法」:複数のアイコンが一貫性あるルールでできていること。
「記憶のしやすさ」:一回聞いたらその意味を忘れない。
「インパクト」:驚きがあり、印象に残ること。
まだまだある。

よくある評価は、一目見てそのアイコンが何を表しているのかという、意味の表現性という面で、何なのかわからないから、それはよくないアイコンであると結論づける。とてもわかりやすい判断基準だ。誰でもそう言って否定できる。「自分はこのアイコンの意味が想像できない。だからこんなアイコンはダメだ。」 たとえ私が、いや何となく私には想像できるんだけどなぁ、と言っても無駄だ、その人にはわからないんだから。

しかし、私はこの意味の表現性といった点は、あまり重要ではないと思う。むしろ「記憶のしやすさ」として上げた点の方が大切である。はじめにわからなくても、一回だけ聞くなり教えてもらえば、もう忘れないものであれば多くの場合じゅうぶんだ。何回聞いてもすぐその内容を忘れてしまうようなアイコンこそ問題だ。
(ただし銀行のATMや券売機のような公共で使う機械に付くアイコンなら1回で意味がわかることは重要である。そのシチュエーションでは利用者はほぼ常に初見者である、と考えるべきだから。)

もしこれらの判断基準の中で一つだけ、というなら私は「弁別性」をあげたいと思う。いくつかのアイコンが並んでいたとして、遠くからでも、一瞬見ただけでも、隣のものと区別できるものであること。利用者は「読み取ることなしに」「思考したり判断することなしに」そこに手を伸ばすことができる。
もしそういう「弁別性」を求めないとしたら、小さな絵で機能やオブジェクトを表現すること自体に意味がないと思う。
何度も述べるように、たったひとつの観点で評価してはいけないが。

今回はアイコンのデザインについて書いてきたが、実はほとんどのことは、UIのデザイン全般に言えることだ。「UIのデザインはアイコンデザインに終わる」というのはそういう意味である。


これまでの自分のエントリーでは、インターフェースデザインや、デザインそのものについて、いろいろと述べてきた。それらはどちらかというと抽象的、思索的なものだった。それは意識的にそうしてきたということもあるし、もちろんそういうことに自分自身、興味があるからでもある。
でも実は、普段のデザインの仕事はいやと言うほど「具体的」なものなので、私としてはそのバランスをとって言葉を吐き出していたということが一番大きい。

情報、操作、関係のデザイン

私たちは、情報デザイン、インターフェースデザイン、インタラクションデザインをこう考えている。

「情報デザイン」
私たちはこの言葉に字義沿ってやや限定的な枠組みを与えたいと思う。目に見える、耳に聞こえる、またある時は手に触れるものとして、ある内容を伝えるために表現されたものとして「情報」を捉えたい。つまり表現とセットになった「情報」をデザインしたいということである。情報を伝えることはコミュニケーションの第一歩である。

情報をデザインしようとするとき、情報表現のめざす方向に二つの面がある。
一つは理解しやすさに関わるものである。この視点は、コンピュータを利用することがわかりにくい、という状況を映したものである。
もう一つは感性的、情動的な表現に関わるものである。これは従来デザインが抱えていた視点である。言葉で伝えることができない、在りたいイメージや意味、美しさを表そうとすることである。

これは理解=頭に働きかけるものと、感性=心に働きかけるもの、ともいえるかもしれない。
これらはときに相反することもそして高め合うこともあるが、最終的には一つの表現に昇華させなければならない。
この二つをそれぞれ高めるとともに、それらの調整をすることがデザインという行為の実態であるといえると思う。

「(ユーザー)インターフェースデザイン」
コンピュータ利用の局所的なものに、コンピュータ関連の機器の「操作」がある。物理的な道具と違い、コンピュータの動作原理は直接目にすることができないので、操作の作法や操作手順は恣意的なものに見える。人としての利用者の立場に立った作法、モード、手順を、作ることではなく、使うということから決める必要がある。
インターフェースのデザインは、情報デザインを含んでいる。理解という面はもちろん、感性という面でも。

「インタラクションデザイン」
わたしたちの仕事や生活を支えてくれるコンピュータシステムの利用は、機器を操作することにとどまらない。利用者とシステムが一体となって大きな一つの働きは構成されている。したがってシステムの概念や機能、関係する人やサービスの仕組みまでを総合的に考えて行く必要がある。わたしたちは、表現のデザインから始まる利用者=受取り手の視点で全体の相互作用=インタラクションをデザインしている。
インタラクションデザインは、デザイン内容として、操作=インターフェースのデザインも情報表現のデザインを自然と内包している。


私たちは、このように自身のデザインを規定している。
この三つのデザインは、人と人工物のコミュニケーションの問題、人が人工物を操作/使うことに関する問題、そして人と人工物の関係性に関する問題、を対象にしている、と考えることもできる。

この中にはもちろん、サービスという視点も、利用者の経験という視点も含まれている。

(131218)

デザインの能力

今日で2ヶ月にわたるインタラクションの授業が終わりました。最後にデザインに関する能力について。

デザインにとって「感じる」ことが何より大切です。

授業では一貫して何度も「考える」ように言ってきましたが、考えるより前に感じていることが重要なんです。考える前に感じていなかったとしたなら、どうしようもない。だから感じる人になって欲しいのです。 例えば課題の、携帯電話について、小学校の体験について、そして「祝う」ことについて、どういう感じを自分は持つのでしょうか?

そして感じているなら、自分のその感じについて考えなければならない。 感じる前に考えてはいけない、でも感じた後には考えなければいけない、ということです。 考えに感じを合わせるのは最悪です。

けれど、もし感じていないとしたら。そのときはまた、考えるしか方法はないのです。 「感じ」というのは、いつも思い出すという形でやってきます。どう感じている? と問われて、あるいは自ら問うて、「わかんない」と一瞬思っても、一所懸命思い出すとゼロでなければ思い出せるものでもあるのです。

感じることを自分に強いることはできないでしょう。感じることは不随意です。不随意だからこそ重要だし、鍛えなければならない。では感じることを鍛えるにはどうするか?

…それもやはり、考えるしかないのですね。考え続けることによって感じることを鍛えることができると思います。 考えることは不随意ではありません。頑張れば考えられます。

いろいろごちゃごちゃと言ってきましたが、デザインという行為のほとんどは、「考える」ということであり、それは「感じる」ためだった、というわけです。

授業の中で、デザインのやり方や方法についてはほとんど触れませんでした。デザインって何なのかを考えましょうと、初回のプリントに書いたのは、こういう授業の予告であったということです。

輪は閉じた?

わからない

d-pb:

「わからない」を突き止めたい。もちろん「わかる」を知りたいのだが、それを直接述べることはむずかしい。わからないは、どこがわからない、何がわからない、どうしてわかないかが、いいやすい。

特に加齢との関係でそれをつかまえるのは、意味があるのではないか。
わかっていると思っていたことが、わからなくなる時間幅の中で、わかるとわからないのか狭間をつかまえること(わからないからわかるへの移行は教育の中で取り上げられている)。
個人の中での差を見ることによって、個体差を超えられるかもしれない。

自分としては、理論としてそれを学ぶのではなく、実感としてそれを納得的に知りたいと思うのである。


デザイナーの実践知

d-pb:

今日は朝から、デザイン学会特集号「デザイナーの実践知」の編集会議。深い議論は最高に頭が楽しい。いくつかのポイントとなる視点。以下は話された事実と私の脳内でスパークしたことが混在している

(via yukafukuoka)

インターフェース基礎 課題1「新しい描き方」

tamabi-integrated:

今回の課題は「新しい描き方」というタイトルを付けました。ここで行われているのは、普段、学生のみなさんが絵を描く時に使っている頭の使い方(目で対象を捉え、頭の中で変換し、手を動かして表現する)とは全く異なるやり方です。

目で対象を捉えるのではなく、データとして対象を捉える。

頭の中だけで変換し、手を動かして表現するのではなく、データを操作し、グリッドにプロットすることで表現する。

「情報を単位化する」という考え方をベースに行われたこの一連の操作を通じて、自分が普段行っている行為や考えるということについて、客観的に捉え直しながら、新しい表現の可能性を探ることを目的としています。

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愛しのNew York

今はニューヨークにいます。
東京より好きな街です。
いつかここに住んで仕事しながら絵を描きたい。
個展を開いて絵を皆さんに見てもらいたい。
そんな勝手な夢を見ながら、お友達の個展に向かいます。

デザインフェスタ

ちょうど1年経つなと思い、投稿しようと思いました。
去年の今頃、東京ビッグサイトで行われるデザインフェスタ
というものに出展しました。
http://designfesta.com/
「自由に表現出来る場」を提供するアートイベント
それがデザインフェスタです。

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これがブースの様子です。
3人でちまぽんぱたという展示をしました。
何もかも大変でしたが、楽しかったです。
また機会があれば出展したいなと思います。
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i.school KOMABA

ついこの前終了したi.schoolKOMABA
1年間長いようで短かったです。
i.schoolKOMABAとは?まずは概要を説明します。
http://ischool.t.u-tokyo.ac.jp/#home
東京大学で行われているイノベーションスクール「i.school」
それの姉妹版だと思っていてください。
本郷キャンパスと駒場キャンパスのうち私は駒場の方に参加!
そこではコンセプトからアイデアを発想し、アウトプットしていく。
美大では中々学べない手法を、1年かけて学ぶことが出来ました。

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まだ夏なのでみんな半袖ですね笑。
東京大学では、様々な人と出会いました。
ありがたいことに、そこで出会った人たちと
新しいプロジェクトを始めることが出来たり
ビジコンに誘って頂いたり。
本当に多くのものを得ることが出来ました。
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1年間ありがとうございました。